弁護士髙橋正明のブログ(安全保障と憲法の一部無効の法理)
安全保障と憲法の一部無効の法理(1)
現在、日本の存立危機・武力攻撃危機などをテーマとして安保関連法案が平和憲法との関連で頻繁に論議されている。どうやら戦後最大の政治的決断が要求されているようだ。しかしながら、何故か、国家の危機に優先して、憲法の解釈に基づくのか憲法違反の有無が論議されている。本末転倒の議論であろう。憲法が、現実の国際情勢に基づいている限り、何ら問題はない。しかしながら、、憲法前文及び第9条は、国際情勢から乖離した「虚構」の平和主義に立脚しているのである。平和憲法を文理解釈する限り、日本は「丸腰」でなければならない。丸腰とは、武器をもっていないこと、軍備がまったくないことを意味する。自衛隊も違憲である。であるが、現実の問題として、自衛隊を違憲である(9条2項)と主張する人は殆どいないであろう。また、あの朝日や毎日でさえ、自衛のための戦争は認められると考えているようである。現実には、自衛隊や自衛権は認められている。よって、憲法9条は、1項はともかく、特に、2項にいたっては空文化している。空文化しているにも拘わらず、条文としては存在する。この条文を根拠にして、憲法違反の主張がなされるている。最高法規の空文化は極めて不自然である。よって、政府は、政治的決断をして、法解釈の原則に則って、憲法9条の無効(一部無効を含めて)を宣言すべきである。その無効を前提として、憲法改正手続を実施して、条文を削除・訂正すべきであろう。無論、無効である以上、憲法改正手続の有無や条文の記載の有無とは関係なく、これに拘束される理由はない。高度の政治問題について、最高裁を師匠と仰いでいるようでは能がない。文学(古典)や哲学が教えるところは「決断」は理性では解決がつかない。このブログでは、ハムレットの作品を扱ってきたが、その台詞を踏まえて、憲法の一部無効の法理について、考えてみたい(「ハムレットのミステリー」はしばらく中断します)。
安全保障と憲法の一部無効の法理(2)
ハムレットの第四幕第四場での台詞の中で、①「人間とは何だ.ただ食って寝るだけで人生のほとんどを費やすとしたら、獣(けだもの)と変わりない(What is a man.If his chief good and market of his time Be but to sleepand feed.A beast- no more)」 ②「人間の理性や考えなどは四分の一は智恵かもしれぬが、四分の三は臆病にすぎぬ(A thought which quartered hath but one part wisdom And ever three parts cowdard)」③「真の偉大さとは、大義がなければ微動だにしないが、名誉が関わるとなれば、たとえ藁(ワラ)しべ一本のためにも、命をかけて立ち上がることだ」とある。前に述べたが、シェイクスピアは、偉大な詩の魂で作品を構成している。①、②、③は日本の武士道にも通じた文学(古典)・哲学である。国家(日本)の存立危機とは、国民(人間)の存立の危機であるが、人間とは、①パンのみに生きているわけではなく、自由や大義・名誉によって生きる存在であろう。先般、国会の憲法審査会において、3名の憲法学者が、集団的自衛権行使は憲法違反(9条違反)であると述べた。中国でなら、体制に批判的な意見であれば直ちに監獄への直行便が出迎えてくれるが、此の国では、野党側は、憲法学者から「違憲」のお墨付きを得たといって喝采する。民主党の枝野幹事長にいたっては、民主党には「神風」が吹いた、早速これを政局に利用してか、2020年のオリンピックの時には、民主党が政権を担っていると豪語する始末である。個別的自衛権はOK、集団的自衛権は駄目というのは論理的ではない。1991年の湾岸戦争(イラクがクエートを侵略した)では、日本では、多国籍軍に自衛隊を参加させず、135億ドル(現在のレートで約1兆7千億円、当時のレートでは約2兆円)の巨額の補償金を支払ったが、世界からは嘲笑を浴びたのである。僕の記憶ではクエートは、ニューヨーク・タイムズに多国籍軍を列挙して感謝の全面広告を打ったが、その中に日本は含まれていなかった。
安全保障と憲法の一部無効の法理(3)
ある日、将来を誓った恋人同志のA男・B女が野原を散策していたところ、不意にBが強姦犯人Cに襲われた。Aは自分は非暴力主義者(憲法の平和主義者)であり、たとえ、恋人の仲であっても、自分以外の者であるBに向けられた暴力には反撃はできない、といって強姦を制止しなかった(集団的自衛権の拒否)。AはBに対し、被った傷害の治療代を弁償するから勘弁してくれとも言った。一方、CはいきなりAを突き飛ばし、現場から立ち去るよう威嚇した。Aは正当防衛(個別的自衛権)として、Cの暴力に対抗しようとたが、Cの圧倒的な実力を恐れて、現場から逃亡した。Bは妊娠して子供が生まれる。Cは、Bにとって、言葉、生活習慣・文化や伝統がまったく異なるが、「寝食」は保障するというので、BはCの保護を受けることになった。以上は、貴方はどう考えるであろうか。Bは、Aと結婚する気になるだろうか。Bの両親・兄弟はAとの結婚に同意するだろうか(憲法上は同意はいらないが)。Bの消息を知ったAは精神的疾患を患っている。 Aの両親は徴兵すら心配して大事に育てたので、理性的な経済力のある成人になってくれたと誇りに思うだろうか。一戦も交えて、仮に瀕しの重症を負っても、その傷は治癒するが、そうでなく遁走したら、その傷は生涯トラウマとなって、治癒せず、自滅にいたるであろう。ハムレット①、②、③に照らして考えると興味深いものであろう。
安全保障と憲法の一部無効の法理(4)
国家のアイデンティティは「言葉」にある。「聖書」の「ヨハネ伝」では、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」とあるが、民族や地域にはそれぞれ独特の「言語」が存在する。これは人知を超えた不可思議な現象であって、日本は、独特の自然環境下において、日本語を介して外来の文化を吸収・消化して、独特の伝統・文化・歴史を育んできたのである。国家の本質は「言語」にある、と考えても不自然ではない。我々は、現在、外部からの安全保障の脅威に遭遇し、且つ、安全保障を定める最高規範(条文・言語と現実との矛盾・乖離)の危機に直面している。防衛と憲法問題である。憲法は、素晴らしい最高法規であることは疑う余地はないが、しかしながら、9条に関しては、紛れもなく敗戦国日本に埋め込まれた巧妙な「劣化装置」であった(新潮45・2015・8、「特集・漂流する日本」参照)。昭和27年、サンフランシスコの講和条約によって、主権を回復した我々自身が、ただ法匪(ほうひ=法律を絶対視して人を損なう)と化して、何ら対処できない。この装置を敗戦国日本に埋め込んだマッカーサー自身が、昭和26年1月1日の年頭所感において、国際社会の無法状態を認めて(注・世界は冷戦状態に突入、朝鮮戦争が勃発)、最高の理想を定めた平和憲法は自己保存(自衛)の法則に道を譲らなければならない、と警告ていたのである(江藤淳「1946年憲法―その拘束」。なお、この文献は、八木秀次教授の「我が内なる左翼との決別」と題する論考に引用されている‐正論・2015掲載)。9条の文理解釈では、一切の戦力を認めていないが、現実には、自衛隊(軍隊)は存在する。何故、自衛隊が存在するのか、といえば、無法状態=現実は必ずしも平和を愛する諸国民で構成されていないからである。事実(=現実)に即した憲法(日本語)の法的安定性なくして、国家の安全保障はあり得ない。
安全保障と憲法の一部無効の法理(5)
社会思想家の佐伯啓思氏は「国防を忘れた異形の民主主義」と題して、安全保障(防衛)と憲法との関係を的確に論及されている(前掲新潮45・2015・8)。以下にその要点を摘記しておきたい。「憲法の法理に従えば、自衛権の行使も危うい。では日本の防衛はどうするのか、ということになる。憲法のために国があるのではなく、国のために憲法がある。もしも、憲法を厳格に守ったために国が滅んでしまえば、もとも子もない。もっとも、それでこそ歴史に名を残す偉大な国民として、憲法前文にいう「国際社会において、名誉ある地位を占めた」という話になるのかもしれない。ただし、正義の戦いを雄々しく戦って敗戦・消滅して歴史に名を残す国はあるかもしれないが、一戦も交えずに憲法を枕に討ち死にというのはめずらしい。世界記憶遺産に登録されるかもしれないが、現実の防衛の方が気になる。いったい憲法学者はどう答えるのか。自衛隊は合憲なのか違憲なのか。合憲ならそれは戦力なのか。それは交戦できるのか否か。果たして自衛権はあるのか否か」とある。その言わんとされる点は、問題の本質は憲法にあるのではなく、戦争の脅威に対して、日本の防衛をどうように構築すべきかにある。日本の国会では、防衛よりも憲法が優先する。佐伯氏の「現実の防衛の方が気になる」とは、日本の周辺諸国、特に中国の肥大化した軍事力によって、日本の安全保障が脅威にさらされている現状をいう。野党、特に民主党は政権を担った経験があり、中国の脅威について知っているはずであるが、政府案に対する適切な代案をも提出せず、憲法違反を繰り返している。委員会の最終決議では、テレビ向かって、ということは、国民に向かって、一斉に「憲法違反」の「提灯」(ちょうちん)を掲げて、御用!御用!と迫る捕物帳の実演を演じていたのである。平和ボケか楽天なのか、選良の精神的な劣化現象はもはや救いがたい。マッカーサーの日本人12才説は生きていたのである。
安全保障と憲法の一部無効の法理(6)
事実(=現実)を無視した憲法(法律)の解釈論は曲学の謗りを免れないが、その事実(=現実)について、特に、東アジアの安全保障の現実について述べておきたい。僕の本棚に埋もれていた国際政治アナリスト伊藤貫の「中国の「核」が中国が世界を制す」(2006年3月刊行・PHP)を読んで驚いた。これは約10年前に書かれた本であるが、中国の脅威、つまり、日本の安全保障の外的環境は深刻な状況にあることが理解できる。中国とは、中華思想に加えて、コミンテルン(国際共産主義)の流れを汲む中国共産党が設営する異形の戦略国家である。まず、この点に留意して、対内的・対外的の二つ観点から戦略国家の概要が察知できよう。まず、対内的には、国民の民主主義・自由化の流れを弾圧する。最近では、200~300人の人権派弁護士の拘束が報道されている。(マルクスの)宗教は人民にとって阿片であるのか、浙江省ではこの一年半で、1500個の十字架の破壊・撤去、50の教会が破壊され、信者1300人が逮捕されるなどの弾圧があった(習政権 人権弾圧のシンボル 古森義久・産経2015・8)。中国共産党は、国民党との内戦・政権獲得後の地主階級・ブルジョワ階級・反動主義者グループの大粛清・大躍進による大量餓死、チベット侵略、文化大革命時の内戦、蒙古人・ウイグル人・キルギス人の弾圧・各種宗教信者の拷問・殺害、民主化勢力の弾圧によって、推定3800万~6500万人の大量の虐殺行為があった。中国は、常に日本の過去の歴史を持ち出して対日外交の攻撃材料にするが、自分たちの過去の歴史は封印する(これをダブルスタンダードという。因みに、韓国も同じダブルスタンダードの国である。例えば、朝鮮戦争では、中国は、金日成の共産党政権と一緒になって韓国を侵略したが、日本に対するのとは異なって、(侵略者である)中国に対し、謝罪と反省は一度も求めていない―謝罪の要求 中国には遠慮 黒田勝弘 産経2015・8)。仮に、国民の自由化・民主化の広がりによって、中国共産党の真の過去の歴史の封印が解けると、中国共産党は政治的・道徳的基盤を失い、中国の支配階級層は復讐・殺害される危険の可能性がある。現在(2006年当時)、約800の強制収容所・強制労働キャンプがあって、200万~300万に人民が正規の司法プロセスを経ずして収容されている。中国国内の自由化・民主化を阻止して、過去の歴史を封殺する必要があるようだ。
安全保障と憲法の一部無効の法理(7)
対外的には、中国は、公的には、「平和的台頭」を強調するが、強大な覇権国家である。1840年のアヘン戦争以来、「屈辱の歴史」の報復が根底にある。1851年の太平天国の乱、1900年の義和団の乱、1911年の辛亥革命などで報復を企てたが、すべて不発に終わっている。人民解放軍の軍事科学院のミ・ジェン・ユー氏は、「我々中国人は、長期間にわたって、復讐の意思を静かに育て続けなければならない。中国の真の能力を隠して、チャンスの到来をじっと待ち続けなかればない」と述べる。中国の平和的台頭PRを鵜呑みにしてきたのが日本の親中派である。日中の経済依存性は拡大したが、中国の経済拡大=軍拡であって、日本をターゲットとする核弾道ミサイルを増産し、将来の対日潜水艦戦に備えて海洋調査・海図作成と海軍演習を進め、徹底的な反日教育を実施して国民の反日感情を煽り、世界各国で中国の工作員による反日プロパガンダ活動を拡大している。その最たるものが、抗日戦争勝利記念行事であろうか、ロシアの部隊も参加して、軍事パレードを実施し中国の軍事力を誇示する。国連は、いかなる国に対しても武力による威嚇・武力の行使は慎まなければと謳っているにも拘わらず、韓国出身の潘国連事務総長が北京に出席する。ともあれ、中国は強力な軍事力によって、黄海、東シナ海、南シナ海はすべて中国の領海だとする既成事実の構築に奔走する。数多くの軍事学者と国際政治学者は、「21世紀の東アジアは、世界でもっとも危険な地域」であると指摘する。
安全保障と憲法の一部無効の法理(8)
ニューズウイーク日本版(7・7では、「中国は南シナ海で行っているのは、地形の改良を目的とする埋め立て工事と称して、実際には、低潮高地(満潮時に水面下に没し、干潮時水面上に現れる自然に形成された土地)や岩礁に人口建築物を造っている(人工島の建設)。その戦略的目的は、既成事実を積み重ねて、人口島に軍隊基地を設置にして、地理上からも国際法上からも、まったく根拠のない「九段線」(南シナ海のほぼ90%の広大な海域)の実効支配を企んでいる。中国は、尖閣諸島の領海内に最初は民間の漁船団、非武装の艦艇を送り込み、領有権の既成事実化を狙って、防空識別圏を設けた。南シナ海では人口島の建設についで、防空識別圏を設定する。大陸から飛び立つ戦闘機の航続距離は南沙諸島の上空をパトロールできない。軍用の滑走路や補給基地を設置して「九段線」の実効支配を確保する。周辺諸国は、アメリカが中国に対抗してくれること望んでいるが、中国の報復を恐れて、表向き中国に逆らわない。アメリカはこの海域から出て行って、アジア(ハワイから西の太平洋地域)の覇権を中国に譲ると考えている」とある。最近、来日したフィリッピンのアキノ大統領は、南シナ海で緊張を高めている中国の動きを戦前のナチス・ドイツになぞらえて危機感を表明した。加えて、ナチス・ドイツの領土拡張を阻止する動きがなかったとの歴史的教訓を指摘する。これは英国の首相チェンバレンのことであろうか。彼は、ドイツの領土拡大を図るヒットラーに対し「融和政策」(平穏裡に解決する政策)をとったが、これが裏目に出て、ヒットラーの戦力の増強と侵攻を許して戦線は拡大した。「21世紀の東アジアは、世界でもっとも危険な地域」といった警告は尖鋭化しているのである。日本国民は、平和ボケに甘んじて、憲法を枕に討ち死にする覚悟があるのか(国民の大多数は、それを望んでいないであろう)、憲法前文の平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼することによって成立する安全保障の外的環境(=現実)は完全に破綻しているのである。
安全保障と憲法の一部無効の法理(9)
第9条(戦争の放棄、戦力・交戦権の否認)は、国民の生命・財産を守る安全保障を定ているところ、①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する(一部省略)、②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めないとある。①、②を文理解釈すると、①の戦争とは、侵略戦争であり、これは否認(放棄)されているが、自衛戦争はこれを認めると解する余地がある。しかしながら、②では、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しないと定めている。従って、仮に、①の自衛戦争(侵略戦争ではない)の目的を達するためであっても、陸・海・空の一切の戦力保持は否定されていると解するほかない。自衛戦争であっても、これを遂行する戦力は一切否定されているのである。加えて、②では、①で自衛戦争を認めたとしても、その交戦権を否定されている。よって、多数の憲法学者は、①、②の文理(=言葉)解釈では、個別的自衛権の行使(自衛戦争)をも否定し、自衛隊を違憲であると判断する。これは文理解釈としては正しいのである。因みに、朝日新聞は憲法学者209人にアンケートを実施したが、回答者122人のうち、安保関連法案が違憲だとする者は104人であって、集団的自衛権を憲法違反と考えている。加えて、自衛隊を違憲とする者は50人、違憲に当たらないとする者は28名、憲法改正に関しては、賛成が6人、反対が99人である。しかしながら、では、何故に現実には自衛隊は存在しているのか、憲法学者の間では、憲法の規範と現実との乖離、つまり、9条の条文(丸腰と解釈されている)と現実(=自衛隊の存在)との齟齬について、「憲法の変遷」として論議されているが、一般のメデヤでは余り公開されていないようである。
安全保障と憲法の一部無効の法理(10)
慶応の小林節名誉教授は、6月22日、衆議院特別委員会での陳述において、「われわれは大学で伸び伸びと育ててもらっている人間で利害は知らない。条文の客観的意味について神学論争を言い伝える立場にある。字面に拘泥するのがわれわれの仕事で、それが現実の政治家の必要とぶつかったら、そちらが調整してほしい。われわれに決定権があるとはさらさら思わない」と述べている。櫻井よしこ氏は、(同教授の発言は)「学者とは別に、政治は国際社会の現実に基づいて国益を考えよ」といっているわけで、正しい主張である」と評価されている(自衛隊に不条理な負担・産経)。同教授の過去の言動に徴する限り、この評価は正解である。しかしながら、現在、同教授は、安保法制を憲法違反であるとの急先鋒に立っている。従って、政治家に調整しろ、とか、憲法学者には決定権がない、とか言及しているのは、憲法学者は、現行の条文の字面に拘泥して、9条の①、②の文理解釈を行うのが職務であって、この解釈と政治家の現実(安保法制)との間に食い違いが生じたら、政治家の責任でもって矛盾のないよう適切な措置を取って貰いたい、要は、憲法の改正に言及されていると解される。高度の政治的問題は、その憲法の取り扱いを含めて、国民からの負託を受けた政治家の責任で対処すべきであって、その自覚を促しているのである。「わが国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有するものについては、一見極めて明白に違憲でない限り、内閣及び国会の判断に従う」(砂川判決)とあって、裁判所も同じ立場を取るであろう。安全保障は国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治問題であり、内閣や国会が率先して解決を図るべき事案である。
安全保障と憲法の一部無効の法理(11)
諸外国では、外交・安全保障の問題は、政治的党派に関係なく、同じ立場を堅持する。しかし、日本の場合は異なるようである。民主党の場合、3年余国政を担当して、周辺諸国の核保有の脅威について知悉しているはずであるが、安保法案にはこれといった対案も出さず、共産党や社民党と一緒になって「憲法違反」の連呼に終始していたようである。安保法案の場合、対案を文書で提出して、争点や論点を明らかにして議論しない限り、混乱を招くだけである。民主党の岡田克也代表は、平成15年5月の読売新聞紙上で、「日本を防衛するたに活動している米軍が攻撃された場合、日本に対する攻撃と看做し、日本が反撃する余地を残すのは十分に合理性がある。今の憲法は、すべての集団的自衛権の行使を認めないとは言い切っておらず、集団的自衛権の中身を具体的に考えることで十分整合性を持っていると説明できる」と述べていた。安倍政権の考えとさして変わらない。加えて、民主党政権のとき、同代表は、「核搭載米艦船の一時寄港を認めないと日本の安全が守れないならば、その時の政権が命運をかけてぎりぎりの決断をし、国民に説明すべきだ」との国会答弁に及んでいた。外国からのの核の挑発によって、(日本が)存立の危機に直面したら、非核三原則を廃して、米軍の核兵器を本邦へ持ち込むことの可能性を示唆していたのである。これらは真っ当な議論であって、少なくとも安保政策について、与党との間で真摯な論議を尽くすことが可能であった。少なくとも、共産党や社民党とは異なるのである。一方、政治家が意見を変えることは問題ではない。しかし、何故変えたのか説明がないと、党として一貫性に欠け、将来、政権を担う資格がない。同じく一部のメディアも偏狭であった。平和ボケといっていいのか、焦点がボケているのである。メディアが一定の政治的立場をとることには問題はない。北朝鮮の核ミサイルの脅威、中国の尖閣に対する核心的利益の捏造と武力行使の挑発、南シナ海の緊迫した現状に照らして、国際政治の危機的現実を真正面から分析のうえ、自己の意見を開陳すべきであった。メディアの中には「日本の民主主義の将来は暗い」、「戦後の平和主義、民主主義は危機に瀕している」(NEWS23・TBS系)、「私たちは大きな崩壊に出会っている」(報道ステイション・朝日系)といった論評が見受けられたが、見当外れの議論である。
安全保障と憲法の一部無効の法理(12)
政府は、安保法案は、昭和34年(1959年)の砂川判決に依拠しているため、憲法違反ではないという。同判決は、米駐留軍と安保条約(旧)の合憲性を問題としたものである。いわば苦渋に満ちた判決であるが、憲法9条は、「わが国が主権国として持つ固有の自衛権」を何ら否定されたものではない、と説示している。注目すべき判決である。憲法と自然法との間に乖離がある場合、より根源的な自然法の法理に従うべきことを述べている。前記の通り、憲法9条は1、2項で構成されているところ(1項=①、2項=②で説明していますが、以下も同様)、少なくとも、①、②の文理(=言葉)解釈では、わが国では自衛権の行使(自衛の戦争)は認められていない(放棄)。因みに、②の冒頭に「前項の目的を達するため」の文言の挿入によって、①での自衛のため戦争が肯定され、②では自衛の戦力(軍隊)の保持が認められるとの解釈論がある(芦田修正)。一理ある見解であるが、しかしながら、「前項の目的を達するため」の文言は、①、②の連結器の作用をしていて、①、②の一人歩きは許されない。従って、上に述べた文理解釈の域を出るものではなく、①、②の文理(=言葉)解釈に従い、自衛権の行使(自衛の戦争)をも否定されていると解するほかないのである(これは、マッカーサーの意図が強く反映したものであった)。判決では憲法9条の①、②項は、「いわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれにより(ア)わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、(イ)わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである」と判示する。(イ)は後に述べるが、(ア)は、9条の①、②の文言の解釈から由来したものではない。「主権国として持つ固有の自衛権」とは、より根源的な法である自然法によって認められた固有の権利であって、この権利は、戦争を放棄し、戦力の保持を禁止した憲法9条の規定によって何ら否定される謂れのものではないと説示する。憲法の規定が自然法に抵触する場合、その規定は無効である点を宣言している。