弁護士髙橋正明のブログ(憲法9条無効の法理と憲法の改正)

 憲法9条の無効の法理と憲法の改正(1)

砂川判決は、(ア)「わが国が主権国として持つ固有の自衛権」を何ら否定されたものではない、と説示のうえ、(ウ)「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない」と判示する。(ア)を敷衍(ふえん)して(ウ)としたが、「主権国として持つ固有の自衛権」、「国家固有の権能」、「何ら否定されたものではない」「行使として当然のこと」といった概念や文言に照らして、これらは憲法の条文解釈から直接由来するものではなく、自然法に依拠したものである。安倍政府は、(ア)(ウ)を今回の安保法案の憲法上の根拠として、限定的とはいえ集団的自衛権を認めたのである。再三述べたが、憲法9条①、②項の文理(=言葉)解釈に従う限り、自衛権の行使(自衛の戦争)をも否定されているところ、(最高裁は自然法に則り)主権国として(ア)(ウ)の(個別的)自衛権を認めた。しかしながら、一方では、その自衛権を担保する戦力については憲法の解釈論に委ねたのである。その結果、木で竹を接ぐというか、ちぐはぐな論理構成となっている。同判決は、憲法9条①、②項の法意について、②項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権・管理権を行使することにより、1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすごとがないようにすることであって、②項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、その保持を禁止した戦力とは、わが国が主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局、わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと述べて、米軍と安保条約(旧)の合憲性を認めたのである。この最高裁判決は、一方では主権国として持つ自衛権を認めたが、他方ではその主権国が指揮・管理する戦力(自衛隊)の保持を禁じて(②項の解釈論)、他国である米軍の戦力に(主権国の)安全保障を委ねることを認めたのであるが、およそ主権国家としての本質を成した判決とはいえない。とはいえ、この判決を批判しているのではない。これは司法権の限界というか、法の創設や政治問題には関与しないといった原理原則に基づいた苦渋の判決であって、主権国家の政治がどう判断すべきか、憲法の改正を含めて自らを省みるべき事柄であろう。

憲法9条の無効の法理と憲法の改正(2)

文芸評論家黒子一夫氏の「村上春樹 なぜノーベル文学賞をとれないか」という論評を読んだ(産経)。その要点は、以下の通りである。ノーベル文学賞というのは「人気」ではなく、その文学がどんなメッセ-ジを内包しているのか、これが重要な課題である。村上春樹の文学は、ポスト・モダン文学だという評価とも関連していて、高度に発達した資本主義社会に生きる人間の「喪失感」や「疎外感」「孤独感」「絶望感」を描くことに成功し、若者を中心に多くの読者を獲得したが、ではそのような「喪失感」や「孤独感」を内に抱いて生きる若者に対して、彼の文学はどんな「生きる指針・ビジョン」を提示してきたのか、そこに疑問が残るのである。村上春樹の文学的特質について、大江健三郎は「社会に対して、あるいは個人生活の最も身近な環境に対してすらも、いっさい能動的な姿勢をとらぬという覚悟からなりたっています」と看破していたが、この評価はいまだに有効。以前、村上春樹は、大江の評価と同じ意味の社会的無関心であった文学的傾向を転換させ、今後は、コミットメント(能動的に社会と関わりを持つ)を主題とした作品を書く、と宣言したが、いまだに迷走して実現していない。これがノーベル賞から遠ざける原因になっているのではないか、といった指摘である。興味深い論評である。僕は、村上春樹の作品の是非を論ずる資格はないが、この「論評」を読んで、唐突であるが、ギリシャ神話のパンドラの箱を想起したのである。人間の喪失感・疎外感・絶望感などの苦悩を描いても、日常生活の記録に過ぎない。(本来、読者は)暗やみの中の明かりを求めている。80才を過ぎても創作意欲の衰えなかったゲーテは、「もっとひかりを」と言って死んだとあるが、その「光」や「焔」はギリシャ神話の「希望」を意味しているのではなかろうか。人間は希望によって生きることができる。しかし、希望を失ったとき、死を意味するのである。こうした観点から、人々に生きる指針・ビジョンを提示できないだろうか。余計なことをいったが、それにしても、村上主義というのか、批判はするが、社会的無関心によって、解決策を示さない、これは日本人の一般的な思考傾向ではなかろうか。例えば、自衛隊の憲法違反を主張する憲法学者は多いが、社会的無関心というのか、積極的にコミットして、その憲法改正の指針やビジョンを展開したり、その戦略について言及する学者は殆どいない。僕は、上記ノーベル文学賞の「論評」をよんで、ふと、憲法改正の戦略について述べた新聞記事を思い出し、切り抜きを探したところ、「交詢社主催の第7回オープンフォーラム」において「そろそろ具体的な戦略を考えるべきタイミングではないか」との観点から論じた改憲の記事に遭遇したのである(7・15産経)。

 憲法9条無効の法理と憲法の改正(3)

今年6月、安全保障や憲法の改正について、日本国際フォーラム理事長伊藤憲一氏(司会者)、自民党政調会長稲田朋美氏、外交評論家岡本行夫氏、富士フイルムHD会長兼CEO古森重孝氏らが議論し、憲法改正の戦略についても言及している(以下、敬称略)。伊藤 「私から憲法改正についてお聞きします。そろそろ具体的な戦略を考えるべきタイミングではないか。(1)国民に改憲の抵抗感を取り除いてもらう必要がある。89条(私学助成禁止)に反対する人はいないと思うので、(2)それとのセットで9条2項(戦力不保持)の削除を提案してはどうか。96条(憲法改正要件)の改正も、国会で発議さえすれば、国民に反対する理由はにはずです。如何でしょうか」と戦略を述べる。
稲田「自衛隊は憲法違反の怖れがある組織だ」と教科書に書かれている状況は即刻変えなければならないので、9条2項はきちんと改正すべきです」とある。岡本「憲法改正について、(3)今打って出て、国民投票で可決できるか。失敗すれば今後数十年、機会はめぐってこないでしょう」とある(下線部分(1)(2)(3)は付記)。憲法改正の要諦は、(2)9条②項に焦点を絞ることであるが、一方、(3) 打って出て、失敗すれば今後数十年間改憲の機会を失うリスク(危険)があるとの懸念を払拭できていない。昭和30年(1955)、結党以来の党是として、自民党は、「自主憲法制定」を掲げてきたが、60年の歳月を経過しても、実現していない。これは政治の怠慢であろうか。憲法改正は砂川判決が示唆する典型的な「政治問題」であって、緊急を要する政治的課題である。歴代内閣は、憲法改正は緊急性がないとして、軽軍備路線を敷いて、経済を重視する政策を続けてきた。最近の内閣をみても、平成17年、小泉政権の下で策定した「新綱領」は「近い将来、自立した国民意識の下で新しい憲法が制定されるよう、国民合意に努める」、平成22年綱領、谷垣総裁の下で改定した「平成22年綱領」では「日本らしい日本の姿を示し、世界に貢献できる新憲法の制定を目指す」とあって(自民党60年・上・下―立党の精神は今 産経)、(1)国民の抵抗感に翻弄されてか、或いは、改正の発議を単独で所持していないことを口実にしてか、美辞麗句で装飾して悠長に構えて現実性がない。「今でしょう」、いつやるんですか、すべからく政治家は、テレビで活躍中の林 修先生の薫陶(くんとう・自己の徳で他人を感化すること)を受けるべきではなかろうか。

憲法9条の無効の法理と憲法の改正(4)

最近、高松に出張した際、レンタカーを借りて、高松から今治に行き、今治国際ホテルに泊まった。翌朝の愛媛新聞は、来春にも、弁護士や元裁判官らが300人ほど集結して、平和的生存権の侵害を理由に「安保法案違憲・大規模提訴へ」と大々的に報道していた。今回の安保法案成立で「自衛隊の海外出動が現実化し、日常的なテロや戦争に巻き込まれる危険や恐怖を感じざるを得なくなる」として、「平和的生存権」や「人格権」の侵害を訴え、反対の声を押し切って解釈改憲や強行採決に踏み切ったと批判し、「憲法制定権」や「国民投票権」の侵害も裁判の俎上に載せるとある。聖徳太子の「和を以て貴しと為す」や「平和」の概念は至上の政治的原理であって、だれも否定する者はなく、現状では、国家が独立して存立(=存在)し、立法・行政・司法の統治機構が完備して、国民の平和的生存権や人権が保障されている。しかし、国際社会では、事情が異なるのである。国家制度を凌駕する上位の統治機構はない。また、平和を愛する諸国民の信頼と公正に満ちた理想郷も存在しないのである。中国は、尖閣諸島沖に公船を送り込んで領海侵犯を繰り返し、南シナ海では人口島を建造して覇権を露わにしている。特に、大量の核兵器を装備して日本の安全保障(平和)は危機に直面しているのである。こうした国際環境の下で、「安保法案違憲・大規模提訴へ」の主要なテーマである「平和的生存権」とは何を意味するのか、よく分っていないようだ。最近の産経新聞において、古森義久氏が「アメリカノート、どんな平和を望むのか」という文章を書いておられた。概略、以下の通りである。「単に、戦争のない状態の平和を守るには絶対に確実な方法がある。外部からの軍事力の威嚇や攻撃にすぐ降伏することだ。相手の要求に従えば、この平和は保たれる。尖閣諸島も中国に提供すれば、戦争の危険は去るわけだ。戦争さえなければ、他国に支配された「奴隷の平和」でもよいのか、自由も人権もない民主主義もない平和でもよいのか。ベトナム戦争の終わりに目撃したのは「独立と自由より貴いものない」という民族独立闘争の標語だった。独立や自由のために平和も犠牲にして戦争する、というベトナム共産党のホー・チ・ミン主席の言葉である。米国の歴代政権が国家安全保障の究極の目標として「自由を伴う平和」という条件を付けるのも同じ趣旨である」とある(下線は付記)。「自由か、しからずんば死か」これは米国の独立に際して発せられた言葉であるが、戦後、中国によって、祖国を奪われたチベットやウイグルの人たちがどんなに悲惨な運命に曝されてきたか。国際連合は無力である。現在、中国では、4万人以上のウイグル人が刑務所で暴行を受けているという。ウイグル自治区で起きている騒乱は、中国政府の抑圧政策が原因であり、パリの同時多発テロとは性質が違うと書いたフランスの女性記者は事実上国外退去処分の通告を受けた(28/12産経抄)。このフランス人記者について報道したNHK海外放送は、中国国内で約2分半テレビ画面が真っ黒になり音声も途絶えて、中断したという。新しい年には憲法問題が再燃してくることは確実であろう。憲法9条改正は安倍首相の悲願だが、今は現状維持に後退している、という。首相は戦後の傑出した政治家であるが、一方では、「60年かけても目標を達成できないなんてねえ」と不満を漏らしているようだ。憲法改正に向けたビジョンや戦略がないからである。

憲法9条の無効の法理と憲法の改正(5)

新年1月1日の日刊ゲンダイには、小林節慶大名誉教授と小沢一郎生活の党代表とのスペシャル対談が掲載されていた。小林節氏は、憲法解釈における神学論争の立場を離れたのか、憲法が、9条が、議会制民主主義が、国民主権が危ないと称して、安倍政権の暴走を止めるため、野党の政治家を励ますネットワークをぶち上げると張り切っている。相変わらず、太平楽を並べているようだ。国際社会の現実を看過しては何の意味もない。「大国の興亡」の著者であるアメリカのエール大のポール・ケネデイ教授は、われわれは無秩序な世界に身を置いているとして、ハムレットの台詞を引用のうえ(国際情勢は)「今の世の中はタガが外れている」と同じ状況下にあると述べている(1・4産経、指導力の欠落・最悪の未来)。「イスラム国」のテロの危機、トラブル・メーカー・プーチン大統領下の「手負いのロシア」の兆戦、そして、恐らく最も大きな問題は中国の台頭であって、確信に満ちた挑戦的な中国にどう対処するか、これらの3つの危機や脅威によって、国際社会は混沌として秩序を失っている。国際構造と機構、体制は脆弱、国連安全保障理事会はうまく機能していない。米国の指導力は漂流している。国際秩序の将来にとって最悪な点はリーダーシップの欠如である。前掲1・5産経では、同教授は、中国は、強力な「中国王朝」への回帰をめざしており、他国を支配下において属国にすることを望んでいると述べている。この場合、属国とは、他国を中国共産党の支配下において、自由も人権も民主主義もない体制に置くことであろう(前掲古森義久参照)。核戦略について、中国は「帝国主義者が核攻撃したとき報復に使われる」と主張してきた。この「報復核戦略」は、一時撤回されたが、現在の国防白書では、復活して、(核兵器の目的は)「戦略的抑止と核による報復」(報復核戦略)と「戦略的な早期警戒戦略」の二つが特定されている。後者は、敵国の攻撃態勢の早期察知、反撃までの時間短縮、敵ミサイル発射の即時報復などの戦略・戦術が認められているようだ(安保法制、次は、核と憲法だ、東谷あきら 正論12・2015)。国際政治において米国の影響力が低下していること、中国は国連の常任理事国のメンバーであり、たとえ領土の拡張を図っても、安保理での拒否権の発動によって、国連の制裁を回避できること、核の破壊力によって、戦争は絶対に起きないと看做されていること、核不拡散条約(NPT)によって、多数の国々は核の保有を禁止されていることなどの諸条件を慎重に計算のうえ、南シナ海での蛮行の途を突き進んでいるのである。中国にとっては、核は、本来の姿である戦争の抑止力の「楯」(たて)ではない。周辺諸国を挑発し威嚇する「梃子」(てこ)として利用している。ロシアのクリミヤ半島の併合も同じ政治力学によるものだ。一方、今回の北朝鮮の水爆実験は、核兵器の小型化の開発が高度の域に達した事実を示唆したものと解されているが、この実験によって、もっとも大きな衝撃を受けたのは外ならぬ中国ではなかろうか。親中派の張成沢の粛清を契機として、中国との同盟関係に決裂が生じていたら、核大国とて枕を高くしては寝られない。中国から北のミサイル基地に核攻撃があっても、北朝鮮は、中国の大都市に核報復攻撃をするだろう。抑止力の問題である。世界は、混沌としてタガが外れ、日本は、北朝鮮・中国・ロシアの近隣諸国の核の脅威に包囲されている。これは、「異常な事態が自国の至高な利益を危うくしている場合」に相当する(核不拡散条約)。日本の主権に関わる問題が発生しているのである。

憲法9条の無効の法理と憲法の改正(6)

憲法の改正には自ずからそれに向けての戦略(ヴィジョンでありシナリオである)が必要である。日本の現状では、戦略なくして憲法改正の難関は突破できない。改正案としては、9条、国の元首(代表者)の規定、環境問題や地方分権など多岐にわたる改正条項が想定されている。まず、第1点として、特定の条項に絞るのか、網羅的な改正案にするのか、これを決定しなければならない(国民に提案すべき改正案を国会(政治家)が決定する)。日本国際フォーラム理事長伊藤憲一氏が指摘する通り、憲法9条に焦点を絞って一点突破を図るべきである。もっとも、有事や大規模災害の緊急事態に対処する条項や、定足数の緩和に関する条項を付加することは可であって、個々の改正案はそれぞれ独立して国民の承認の対象となろう。再三述べたが、9条②項は、言葉通りに解釈すると(文理解釈)、国家の安全保障を守る実力組織(軍隊)を否定している。しかしながら、一方では、その実力組織に相当する自衛隊は国家の巨大な組織として存在している。一部の熱狂的な平和主義者を除いて、国民の大多数はこれに異を唱えてはいない。これは憲法9条②項の空文化である。空文化とは何の効力も持たない文意である。この現象を捉えて、(イエリネックは)、「事実は法を破壊し、法を創造する」(事実の既判力論)との観点から、「憲法の変遷」として論じている(注釈 日本国憲法 下巻 樋口・佐藤・中村・浦部共著・青林書院)。もっとも、憲法の変遷とはいえ、憲法に改正条項がある場合には、改正手続に拠るべきであると解するのが有力な学説のようである。それはそれとして、日本国憲法の改正手続は、衆・参3分の2以上の決議を経て、最終的に国民・主権者・憲法制定権者の判断(承認)に委ねられている。再三述べた通り、世界はタガが外れ、日本は、北朝鮮・中国・ロシアの近隣諸国によって核とミサイルの脅威に包囲されている。記念行事と称して。その威力をも公開して誇示している。我が国は、異常な安全保障環境に遭遇しているのである。にも拘わらず、この時期に及んでも、主権者たる国民の意図を確認せず、「自衛隊」の安全保障上の地位を不確定な状態に置いているのは極めて不自然であって、独立国家(=主権国家)としての体を成していない。これは与党であれ、野党であれ、国政に携われ政治家のサボタージュ(怠業)に外ならない。因みに、自衛隊を「軍隊」として認めることと平和国家を推進することは何ら矛盾する概念ではない。

憲法9条の無効の法理と憲法の改正(7)

先般の共和党の大統領選討論会における安全保障に関して、「あなたが大統領に就任後、最初にホワイトハウスの危機管理室で取り上げる3つの課題は何か」との司会者の質問に対して、一般論や中東に特化した回答をする候補が多い中、マルコ・ルビオ上院議員のみが優先課題の第一に北朝鮮・中国の脅威を挙げ、以下、中東問題、プーチンの周辺地域への進出阻止である、と答えている。ルビオには、自由を抑圧する勢力か否かを基本に友敵関係を考える発想が明確に見られ、それゆえ共産党独裁の中国は敵対勢力であり、日本は戦略を共有し得る友邦という位置づけである(「北朝鮮・中国を最優先課としたルビオ」、島田洋一教授・「正論」・平成28年4月号)。なお、ルビオ上院議員は、自由陣営における真の意味の「政治家」と思われるが、昨日、大統領選から撤退した。この挫折を認めて、将来を期待したい。前記の通り、ポール・ケネデイ教授も同じく中国の軍事的脅威が世界の混乱の最大の要因であることを認めている。中国共産党政権は、一党独裁の国家形態であり、軍隊の組織した政治形態であって、民意の支持を得ていない(選挙がない)。その統治の正当性は共産党軍の抗日戦争勝利にあるが、これは虚構である。そのウソを暴く自由は中国の国民にはない。中国は、「平和的台頭」と偽装して、建国(1949年)から100周年(2049年)を目標に経済・政治・軍事の各面で米国を完全に凌駕して超大国となり、中国共産党の価値観や思想に基づく国際秩序と覇権の確立を目的とする。世界覇権への謀略の主要手段として、「現在の日本は戦前の軍国主義の復活を真剣に意図する危険な存在だ」とする「日本の悪魔化」工作を実行してきた。アジア諸国と日本国内をも対象とする反日工作は日本が米国の主要な同盟国として安保と経済の大きな柱である現状を突き崩すことを目的としている(ピルズベリー著「100年のマラソン」・「あめりかノート」古森義久からの抜粋)。日本の首相の靖国参拝、歴史問題などは「日本の悪魔化」(反日)工作の顕著な例であって、日本に自虐史観を植え付け、独立国家(自主防衛)への途と阻止する狙いがある。要は、覇権の実現には、日本を軍事面で無能な状態にしておくことが必要だからである。韓国や日本の一部政治家やリベラル系のメデァがその尻馬に乗ってきた傾向もまた否めない事実である。獅子身中の虫という言葉があるが、その意味するところは、同じ「日本丸」に乗っていながら、船底に穴を穿つ行為にほかならない。覇権は共産党政権の必須の政策方針であって、例えば、台湾の場合、自由と民主主義を標榜する独立国家である。だから中国が公正と信義において信頼し得る大国であるなら、台湾の民意を尊重し独立国家として認めて友好関係を結んで然るべきである。しかし、現実はまったく違うのである。一つの中国に固執して、台湾政府が独立を宣言したら、その途端に武力攻撃を辞さない構えを崩さない。台湾は、内政問題からの追及であるが、日本の場合、主権を絡めての追究に及んでいる。いずれも、武力侵攻を前提とした論理であることには変わりない。中国は、尖閣諸島は核心的利益を有すると称してその領有権を主張する。この領有権の主張は歴史的事実に基づくものではない。核心的利益とは、最終的に武力に訴えて解決することを意味する。頻繁に公船を繰り出して挑発し尖閣付近の日本の領海を侵犯する。これは何を意味するのかといえば、単に、尖閣だけの問題ではない。領土主権の火種を撒いておいて、機会を伺って、日本に対する武力攻撃を辞さない構えを堅持していると解されるのである。最近、王穀外相が会見で、南シナ海問題を念頭に、或いは、経済の問題もあるかも知れないが、安倍政権に「中国を敵とみるか、友人とみるか」と迫ったとある。これは武力を背景として強者の弱者に対する恫喝に過ぎない。東南アジアは世界的規模で危機的な状況であると看做されている。その渦中にある日本は憲法改正にも逡巡して独立国家としての自主防衛すら策定できていない。

憲法9条の無効の法理と憲法の改正(8)

対北制裁や米韓軍事演習に対抗して、北朝鮮が(水爆)実験に続き、数発の弾道ミサイル(ノドン・スカッド)を日本海に発射した。推定射程距離1300㌔のノドンの場合、日本全土が射程内に入るようだ。核弾頭の小型化や固形燃料用弾道ミサイルの開発によって、核ミサイルの脅威が増大する。北のミサイルの迎撃として、中谷防衛相は、「破壊措置命令」を発令した。イージス艦搭載の迎撃ミサイル(SM3)や地対空誘導弾パトリオット(PAC3)を配備したようだ。しかしながら、防衛相としてはきれいごとばっかり言っても意味がなく、敵基地攻撃能力の必要性を言及すべきではないだろうか。ミサイル防衛システム(MD)の実施しても、一時逃れの姑息な気休めに過ぎない。仮に、数十発の核ミサイルを一斉に発射する場合、数発は撃ち落としたとしても、防御できない。国土は火の海となって、国民は自滅するしかない。昭和31年、鳩山一郎政権は、わが国土に対して誘導弾等(ミサイル)による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とは解せられないとして、誘導弾等(ミサイル)による攻撃を防御するため、他に手段がないと認められる限り、敵基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれるとの政府見解を表明している。敵基地攻撃について、民主党(民進党)の前原誠司議員が「直球勝負・敵基地攻撃論」と題して、ネット上で公開している。その要点は以下の通りである。自衛隊には北朝鮮のミサイル基地をたたく能力(=矛)は政策的判断で封印されている(専守防衛)。自衛隊にその能力がないとしたら、どうするのか、同盟国である米国の攻撃力である「矛」に頼るほかない。自衛隊は、他国が戦闘機や艦船によって、日本本土に侵攻してきた場合を想定して「楯」の役割を担っている(専守防衛)。日米は、「楯」と「矛」の役割分担を行っている。しかし、昨今の周辺諸国から核弾道ミサイルが飛来する時代には、「楯」の役割(専守防衛)は形骸化して余り意味がなく、敵基地を攻撃する「矛」の役割が重要である。「自分の国は自分で守る」ことは主権国家の原点であり、同盟国(米国)が常に日本にとって合理的に判断を下すとは考えられない(安保破棄もあり得る)。従って、情報収集能力を向上させ「敵基地攻撃能力」を日本独自で持つことも検討すべきである。以上、安倍首相が小泉内閣での官房長官の時代の論考である。同様に、昨年の6月、民主党(民進党)の枝野幸男幹事長は、(安保関連法案は)「日本の安保にとって核となる敵基地攻撃能力に関する議論をスル―している。日米同盟は基軸だが、いざというとき、まず、「自前」を考えられる体制をつくらないと。北朝鮮情勢だけでなく、尖閣諸島の問題にもいえることです」と発言している(単刀直言 私こそ「日本流保守」の政治家・産経)。前原、枝野両氏は共に自前の敵基地攻撃能力の体制構築(=自主防衛)の必要性を説いている。卓見である。これは憲法の改正(自主防衛)を前提とした立論であろうか。一方、安倍首相は、安保関連法によって、「日米同盟の絆をより強化することで抑止力を高め日本人の命や平和な生活を守り抜くことに資する」と述べている。昨今の安全保障環境の激変に鑑みると、日米同盟の強化は必然である。異論はない。しかし、日米同盟にのめり込む傾向がないだろうか。もし、そうだとすれば、日本は(日本の)安全保障の鍵を握る米国に翻弄されて、或いは、アメリカの戦争に巻き込まれるとの理由のない口実を与えかねない。加えて、憲法改正は看過されて戦後レジームからの脱却もできない。日米同盟の強化は、(独立国家として)自主防衛を前提としたものでなければならない。民進党の前原、枝野両議員の方が憲法の改正(9条②項)に近く、安倍首相の方が、憲法改正から遠ざかっているような印象を与えている。最近、共和党の大統領候補の筆頭を走るトランプ氏が、日本が在日米軍の駐留経費の負担を大幅に増額しなければ米軍を撤退させると明言し、更に、日本が核兵器を保有することも容認したとの報道があった。これは、アメリカの政治家及び国民の意見として、日本自身が真剣にその対応を考えれるべきところ、早速、日本政府は、「日米安保条約は基軸である」とった言わずもがなの声明に及んでいる。のめり込みでいる。挙句の果てには、(数兆円の噂のある)地上配備型迎撃ミサイル(THAAD)の導入に踏み切ることになるのであろうか。島田洋一教授の論考に「北朝鮮が日本に向け数十発の核ミサイルを撃つ構えを見せたとき、全ての迎撃はあり得ず、発射台に据えられた段階で攻撃し破壊する以外に、国民の命は守れない。自民党国防部会が09年5月、その種の危機に際しては「策源地攻撃が必要」と明記した文書をまとめ、海上発射型巡航ミサイルの導入を提言したが、たなざらしのままである。政府見解で合憲とされる(自衛のための)敵基地攻撃力の整備が、北の度重なる「暴挙」にも拘わらず、何故一向に政治の場で議論がされないのか。日本が射程の長い打撃力の整備に乗り出せば、中国の態度にも変化が生まれるはずだ」とある(「日本は台北問題の主体的措置を」正論産経2016・2・9)。特に、日本が射程の長い打撃力の整備に乗り出せば、中国の態度にも変化が生まれるはずだとある点は傾聴すべき見解である。